嫋、嫋。

三味線の艶やかな音が、場を震わす。
薄く開いた格子窓の隙間から覗く紅色の蓮。
水面を燃やすが如くに広がるそれは―――、



まるで、この世の極楽浄土。












【天上の絲】












嫋、嫋。

紅が剥げた唇から零れる唄声は、三味線の旋律と重なり何とも言えぬ音色を醸し出す。
高く、低く。
独特な音色に混じる、微かな寝息。
穏やかな低音のそれに、白魚の指が止まった。



「――まだ寝ているのか」



返事がないのは承知の上。その上で声をかけた。
褐色の肌は上半身が冷たい朝の外気に触れている。
下半身もそうなっているはずだが――薄汚れた掛物が、それを覆い隠している。
男――アビの下には寝乱れた敷物が敷かれ、室に入った時にはキチンと置かれていた筈の枕は、室の片隅に転がっている。
渇いた汗で張り付いていた髪を額から剥がし、掻き揚げる。
肩に引っ掛けただけの襦袢がずり落ちそうになり、諦めて袖を通した。
白い肌に映える布が肌に張り付いて、やけに気持ちが悪い。
一口紫煙を吸い、吐き出す。
腹立たしい程穏やかな寝顔に苛立ち、いっそ吹き掛けてやろうかと思ったが、止めた。
幼子のような寝顔は、我が物顔で元閥の膝に乗っている。
――何が悲しくて男に膝枕などしてやらねばならぬ。
そう表面上で否定してみるが、正直内面では諦めの色を浮かべていた。
溜息混じりの紫煙を吐き出し、元閥は傍らに置いていた撥(ばち)をピンと張った糸に押し当てる。

嫋、嫋。

花街で聞くのとはどこか違う音に、元閥は眉を顰めた。



この世の極楽に捧げる、神官の旋律。
不忍池と呼ばれるそれは、燃え上がっていた。
薄墨を流した紺に混じる、紺碧が、その炎を掻き消す濁んだ水のようである。
だが、蓮は決して消えることのない炎。
やがて水は明るくなり、時には白く、また刻が経てば朱に染まり――夜の闇が訪れる。
――変わらぬは炎のみ。
いや、それも違う。炎はいつか消える。
蓮はいつか朽ちる。生きているのだから。
森羅万象、変わらぬものはないはずなのに。

嫋。嫋嫋。

指の動きが速くなれば、音色も影響される。
無心で弾いているに等しいそれは、糸が張り詰めていた。

嫋嫋嫋。



「――…ん」



突如場を揺らした声に、はたと元閥の指が止まった。耳に掛けておいた黒髪が一房、頬に触れる。
先程まで己の膝の上で寝息を立てていた男は眩しそうに双眸を開け、霞む視界で元閥を捕らえた。



「おはよう、アビ」
「…珍しいな。俺より先に起きているなんて」
「たまにはな」



艶微笑を浮かべてやれば、巨躯が猫のように擦り寄って来る。
なるべく衝撃を与えぬように三味線を傍らに起き、少し固い髪をそっと撫でてやった。
しばらくそうしていると突然アビの腕がぬっ、と伸び、彼の頭で優しさを見せていた白い指をギュッと握った。
そのまま唇へ寄せ、ペロリと舐められ、全身が泡立つ。
情事後の白い体が紅く染まり、元閥は慌ててその指を引き離した。



「舐めろなんて言ってない」
「俺が舐めたかっただけだ」



悪びれもせずに言い切ったアビの額をピシとはたき、再度三味線を構えた。
その音色は先程までの穏やかな曲調とは異なる。アビは眉を顰めた。
やがて元閥の唇から、何かが漏れた。
それは、唄だった。





―――可愛けりゃこそ神田から通ふ、





憎て神田から通わりょか―――。






アビはその音色に、しばし聞き惚れた。
目を閉じればすぐにでも寝てしまいそうな体を叱咤し、もう少しこの歌声を聴いていたいと思う。
一区切り付いたと考えられる箇所に差し掛かったとき、アビは元閥の項に手をかけ、そのまま引き倒した。
くわんと何とも間抜けな音を立て、弾き手を失った三味線が畳に投げ出された。
頭一つ分小さな体を己の下に組み敷き、昨晩執拗なまでに残しておいた華に、唇を寄せる。
しばし擽ったそうに身を捩った元閥は、手に握ったままだった撥を傍らに放り投げた。
手探りで素肌のままの、その広い背を探り、ギュッと抱きしめる。



「何の唄なんだ、それは」
「あぁ、江戸は中村座で演じられた岩井歌蘇我対面の大切り所作さ。
元を正しゃ飴売りがこうやって飴売って、それが有名になったんだよ。知らないかい?
『可愛けりゃこそ神田から通ふ。憎て神田から通わりょか。お万が飴じゃに一つてふが四文じゃ』――って」



言われてみれば聞いたことがある気がする。
確か男が女の形をしておまんが飴を売り、百文以上買った客がいるとこう唄い、踊ったという。
その姿がなんとも滑稽で、大人も子供も皆真似た――と。
そうこう考えているうちに、視界が反転した。
何かと思えば、何てことはない。眼前に広がるのは、薄汚れた天井と、美しき男。
ゆっくりと重ねられた唇を、ただ夢中で貪った。
絹髪に指を絡め、窪んだ腰を抱き寄せれば元閥の喉奥からくぐもった声が漏れる。
アビは香の薫りがする髪に鼻を埋め、ちらりと窓の外を見つめた。
紺碧の澱んだ水が、今はもう白光の澄んだ水となっている。
照らされた蓮は、それでもまだ炎を湛えていた。










暗夜なれども忍はばしのべ







伽羅の枕をしるべにて







可愛けりゃこそ神田から通ふ







憎て神田から通わりょか














【終】