胡蝶の夢 壱
吉原―――。
そこは江戸幕府公認の遊里が集まっていた地域である。
一夜一晩の夢を求めた者達が集まる夢の都。
華やかな印象を持たれる吉原こそ、欲望渦巻く舞台だとしたら―――?
【胡蝶の夢】
壱
「妖夷―――だと?」
若き蘭学者、小笠原放三郎は片眉を吊り上げ問うた。
その問いに頷き返した艶女――いや、男は紅のひかれた唇から紫煙を吐き、キツと放三郎を見据えた。
おざなりに煙管を煙管箱に乗せ、姿勢を正し向き合う。
柱に背を預けていた男、竜導往壓はその様子を横目で眺めていた。
「えぇ。昨晩嬉野に聞いたんですがね――何でも、夜な夜な怪異が起こる、とか」
「だがそれを妖夷と判断するにはまだ早いだろう?」
放三郎の後ろで身を乗り出すように尋いた男童――いや、歌舞伎小屋で生まれた娘、宰蔵は桜の華弁のような唇を堅く引き結んだ。
目線だけを宰蔵に合わせ、男――江戸元閥は唇に笑みを浮かべる。
だがその目は一片足りとも笑みを浮かべてはおらず、じっと宰蔵の顔を映していた。それがやけに恐ろしく感じられ、宰蔵は知らぬ間に顔を背けていた。
「怪異と妖夷は違う。それは宰蔵の言う通りだ。怪異があったからと言って、それが全て妖夷とは――」
「そうとも限らねぇんじゃねぇか?」
聞き役に徹していた往壓が、視線だけこちらに向けたまま進言した。
明らかに不機嫌そうな瞳を往壓に浴びせかけた放三郎は眉を顰めた。
だがそんな放三郎の様子など気にも留めた風ではない往壓は呆れたように溜息を吐く。
「小笠原さん。アンタは知らないかもしれねぇが―――吉原ってのは、妖夷にとって恰好の巣窟だ」
「何?」
「その通り。絢爛豪華な遊里(さと)には、裏があるんですよ。嫉妬、憎悪、怨恨、妄執――妖夷が顕れるには持って来いでしてね。
…頭から否定出来るってものでもない」
放三郎は喉奥でううんなどと唸った。
腕を組み何やら思案するような表情を浮かべ、眉間に指をあてる。
だが暫くしてようやく顔を上げると、凛と言い放った。
「――では、宰蔵、江戸元。お前達二人で被害にあった廓(くるわ)に潜り込め」
「ちょっと待ってくれ、お頭」
先程まで一言も口を訊かなかった男――アビは此処に来てようやく口を開いた。
真っ直ぐに放三郎を見据え――いや、睨み付けと言った方が正しいだろうか。
睨み付けながらアビは顎だけで宰蔵を示した。
「そんな危ない真似を、二人にやらせると言うのか」
「宰蔵は禿としてだ。禿ならば客も取らんし――」
「元閥はどうなる」
「花魁として潜入ってもらう」
「だが!」
「儂はそれでも構いませんよ」
反射的に声のした方を見たアビは、ギリと歯ぎしりした。
煙管を咥え瞳を閉じた元閥は紫煙をアビに吹き掛けた。
数度咳込み、アビは胸倉を掴まん勢いで元閥に攻め寄る。
「宰蔵さんならまだ禿で通用する。だが貴方は違うだろ。貴方が潜入るってことは、それは――」
「花魁になるしかないねぇ」
気にした風でもなくそう言い切った元閥は、同意を求めるように放三郎に目配せした。
放三郎は隣に控えていた宰蔵をチラリと見やる。答えるかのように頷いた宰蔵は、大きな瞳を元閥に向けた。
「開始は」
「支度が整い次第、直ぐ」
「分かった。――無茶はするなよ」
「はっ」
音もなく立ち上がった元閥に付いて行くように、宰蔵も腰を上げた。
放三郎に一礼し早足で部屋を出る。
やがて足音が聞こえなくなると、ダン、と大きな音が部屋の中に響き渡った。
見ればアビが拳を床に叩き付けているではないか。固く握り締めた拳は小刻みに震え、アビは憎々しそうに唇を噛んだ。
「…アビ。決まったことだ」
「お頭」
「なぁに、宰蔵なら大丈夫さ。もしもの時は元閥が守る筈だ。それに――あれは、男だ」
吐き捨てるように言った往壓は、もう見えぬ背中をじっと睨み付けていた。
* * *
「おぉ―――美しいな」
嬉野の隣で琴を爪弾いていた花魁――元閥は顔を上げた。
目尻に引かれた緋が一層美貌を引き立たせる。男は感嘆の声を洩らし、ささと促した。
失礼いたしますなどしおらしく言ってやれば、男はだらしなくその頬を弛める。
「名は?」
「元葉(もとは)――でございます。どうぞよしなに。こっちは禿の…」
「宰でございまする」
宰、と呼ばれた禿が頭を垂れると、男はよいよいなどと言って酒を呷った。
艶やかな微笑を浮かべたまま盃に酒を注ぎ、元葉――元閥は男を見つめた。
「ん?どうかしたか、元葉」
「いえ――その…思わず、魅取れておりました…」
口元を袖で隠して恥ずかしそうに頬を朱に染めれば――まさかこれが演技だとは誰も分からないだろう。
目の前の男も例に漏れず、それはもうものの見事に騙されてくれた。
元閥は胸中でほくそ笑み、禿――いや、宰蔵に目配せした。
宰蔵は誰にも気付かれないような小さな溜息を零し、大きな瞳に不安を宿す。
そんな宰蔵の様子を知ってか知らずか、元閥は己より小さな彼女の手を軽く握った。
見上げれば、母のような慈愛に満ちた表情を浮かべた元閥と目が合い、宰蔵の瞳から不安の色が消えた。
* * *
「――――さて」
女郎部屋で腰を下ろしていた元閥は、そんな掛け声と共に立ち上がった。
嬉野の手回しのお陰で客を取らずにすんだ元閥だが、まさかその空いた時間にグウグウと鼾を立てているわけにも行くまい。
本来の目的は、妖夷。
疲れてしまったのか転た寝してしまっている宰蔵に羽織をかけてやり、部屋を出る。
深、とした闇にぽつぽつと浮かぶ蝋燭の炎が、やけに物悲しかった。
華だ蝶だ絢爛豪華だと言われたとて――吉原の本質は変わらない。
この蝋燭の炎のように、強く、儚く。
美しくも醜いこの場所が、元閥は好きだった。
決して誇りを失わぬ女が、元閥は好きだった。
己が男として存在できるここが、好きだった。
長い廊下を音も立てずに歩いていると、やけに深い闇に囚われるような錯覚に陥る。蝋燭が赤赤と燃え、闇を吸い取っているはずなのに――逆に絡めとられているような、そんな異常な錯覚。
元閥は羽織っていた薄衣を胸元で合わせ、揺らめく炎をジツと睨み付けた。
先程となんら変わりのない炎に、これ程までの恐怖を覚えるのは何故か。
その答えが分からず、元閥は一つ、鼻を鳴らした。
* * *
ふと、蝋燭の灯が消えた。
芯が焦げる独特の匂いが鼻につき、宰蔵はゆっくりとその双眸を開いた。未だ掠れる視界を取り戻そうと軽く擦り、多少寝乱れた髪を手櫛で整える。
一つ伸びをし、宰蔵は大きく息を吐いた。
「―――…江戸元?」
辺りを見回すが、人の気配はない。
衣擦れの音を響かせ、立ち上がった。
戸の隙間から冷たい空気が流れ込み、深く澱んだ冷気が足下に溜まる。それを振り払うかのように足を上げた宰蔵は―――闇の中に浮かび上がる朱に、目を奪われた。
「…これは…」
思わず踏みそうになったそれを何とか避け、視界に捕らえた。闇の中でも不気味なほど映えるそれは、宰蔵の目を奪うには十分なもの。
ようやく覚醒した宰蔵の目が、また閉じられた。
【続】