胡蝶の夢 弐
消えていた蝋燭に灯が燈ったかと思えば、浮かび上るは宰蔵の姿。
寝姿となんら変わらぬその姿を横目に、闇が宰蔵の足下のものをその手に持った。
クツクツとした嗤いを漏らした唇が耳まで裂けた姿を見れたものは、いない。
弐
(今のところは何もなし、か)
廓を一通り見て回った元閥はコキリと肩を鳴らした。
空が白み始めた時刻以降何も起こらない――嬉野から聞いた話はこうだ。
夜な夜な女や客が異常をきたす。魂抜かれたかのように頬はこけ、目は虚ろう。
だが空が白み始めればピタリと止む―――と。
まるで妖噺だと口中で呟き、元閥は女郎部屋の戸を開けた。
燃え尽きた蝋燭には蝋がこびりつき、独特な匂いを発している。視線を下側に動かし、ピクリとも動かぬ足袋が目に入った。
――――足袋?
早鐘のように打ち出した心臓を抑える暇もなく、元閥はその情景を目の当たりにした。
黒髪が畳の上に広がり、隙間から入り込んで来る白光に照らされ輝いている。逆に白い肌は更に白く照らされ、病的なまでだ。
紅く彩られた唇が薄く開いており、微かに呼吸音が聞こえる。
「―――宰蔵!!」
抱き上げ揺らしても、娘はなんの反応も返さない。瞼を動かすことも、呻くことも、何一つ、しない。
触れた額が炎のように熱いのに、顔色は青白く、汗一つかいていない。
途端背に氷を入れられたかのような冷たさが走り、元閥は己の腕の中で力を失った娘を掻き抱いた。
耳元で何度も娘の名を呼び、悔やんだ。
音を立て部屋に入って来た一人の女が、耳を刺すような悲鳴を上げたのが―――寅の刻半ばのことであった。
* * *
そこは、闇。
白光輝く外界すらも飲み込んでしまうかのような、ただ純粋なる闇。
嗤い声は闇を侵蝕し、己の糧とした。
そしてそれは―――まるで蜘蛛。
蜘蛛は獲物を求め、闇を蠢いた。
* * *
「宰蔵が――…!?」
知らせを聞いた放三郎は、まるで力が抜けたかのようにその場に崩れた。
往壓はジロリと放三郎を睨み付け、己の隣りで驚愕に目を見開いているアビに視線を移した。
唇をギリと噛み締め眉間に皺を寄せていたアビは、そんな往壓の視線に気付いたのか唇を離す。痕になっているそこから、じんわりと血が滲んでいた。
「江戸元がいたにも関わらずこんな――あ奴は何をして」
「アンタに元閥を責める資格なんぞねぇだろうが」
抑揚がなく、淡々とした冷たい言葉が放三郎の言葉に重なるように発せられた。何を、とでも言いたそうな放三郎を一瞥で黙らせ、往壓は眉根を顰めた。
「自分の近くで親しい奴がこんなことになって、守れなかった自分を責めて――辛くねぇ奴なんかいるわけねぇだろ!!」
轟、と響いた怒号は部屋内の空気を震わせた。
放三郎は持っていた文をぐしゃりと握り締め、往壓を睨み付ける。だが往壓は一つ鼻を鳴らし、不愉快そうな足音を立てながら戸を開けた。
壊れるのではないかというくらいの力で戸を閉めれば、後に残るのは放三郎とアビのみ。
アビはちらりと放三郎を盗み見、進言した。
「御頭――俺に考えがある」
放三郎は後れ毛を微かに揺らし、巨躯を見上げた。
* * *
「元閥様」
「―――あぁ、嬉野か」
床に臥す宰蔵の手を握っていた元閥は、艶やかな女の声で顔を上げた。
そこには元閥の馴染みの太夫、嬉野が険しい顔をして立っているではないか。
嬉野は元閥の隣りに腰を下ろし、細かく震える手をやんわりと握った。
常ならばその白魚のような手を握り返してやるはずだが、今の元閥にそんな余裕はなかった。ただ、苦しかった。
守れたはずだ。
この健気な娘を守れたはずだ。
自分にしか守れなかったはずだ。
なのに、それなのに――!!
「元閥様、きっと大丈夫でありんすから…」
「…儂は、守れなかった」
ポツリと呟いた言葉が、空気に熔けて行く。
汗一つかいていない額を撫で、元閥は紅で彩られた唇をギリと噛んだ。
「儂が離れなければ、儂が傍についていればこんなことには――!!」
元閥の頬が朱に彩られた。
しばし呆然としていた元閥だが、のろのろと熱を持った己の左頬に触れ――信じ
られないとでも言うような表情で、嬉野を見つめた。
嬉野はと言うと、右手を空中で止め、先程よりも一層険しい表情をしているではないか。
「…嬉、野?」
「――そんな泣き言、元閥様らしくございんせん」
はっきりとそう言い――嬉野は宰蔵の首筋を、訝しげな目で見つめた。
「…これは…?」
「ん、どうし――髪?」
元閥はそっと宰蔵の首筋に手を伸ばし、そこに絡み付いていた物を摘みあげた。
細く、絹のような黒髪。
流れるように長いその髪は、まるで宰蔵の首を絞めるかのように絡み付いていた。光の加減によって見え隠れするそれを見つけたのは、ほとんど奇跡と言っても過言ではないだろう。
その髪は生きているかのように――元閥の指を締め付けた。
「っ…!?」
「元閥様!」
慌ててその髪を引き千切ると、シュウと音を立てて消えた。
絡み付かれた指を見てみれば、そこには、赤い筋が幾本も刻まれているではないか。
だが筋はすぐに姿を消し、傷一つ無くなった。
「――どうやら、怪異は髪に関係しているらしいな」
元閥は傷が浮かんだ箇所を、ちろりと舐めた。
* * *
「―――おい、アビ」
「…なんだ、往壓さん」
右を見ればアビ、左を見れば女。さらにその隣りに放三郎。前には、女、女。
金や紅に彩られた部屋は、まさしく――。
「テメェの良い考えってのは、廓に行くことか!?」
「そうだ」
クイと酒を呷ったアビは、呆れ顔でこちらを睨み付けている往壓をちらりと見、放三郎へ視線を移した。
小さく頷いた放三郎は、隣りで酒を注いでいた花魁に小声で話しかけている。女は一瞬訝しげな表情を浮かべたが、すぐに立ち上がり奥の座敷へ姿を消した。
「おい、放三郎さん。アンタ一体何を…?」
「太夫付きの禿が怪異にあったという話を聞いた。是非その太夫に会って話を聞きたい――とな」
「ってそれは…!」
「その通り」
次に障子が開いた時、そこには正座をし頭を下げている、一人の花魁の姿。
花魁は顔を上げ――目を見開いた。
「――…!!」
「そなたが、元葉か」
「小笠原の…若様」
元葉――元閥は、三人の顔をゆっくりと見回し、静かに溜め息を吐いた。
* * *
「―――――…」
声が、した。
歌のようにも聞こえる女の、微かな声。
流れるような黒髪を一房指で掬い――女は血の色をした唇をあてた。
「――――」
苦しい。
貴方に、会いたい。
女は、ただ歌っていた。
【続】