胡蝶の夢  参













夢を見ていました。
光の夢。貴方の夢。
いつか必ず、貴方に会えると信じていたのです。
どうか。どうか。
私を迎えに来てください。
朽ち果て屍になろうとも、私は。





















「どうぞ」
「あぁ―――すまねぇな」



小さく陶器が重なる音がし、盃に酒が満ちてゆく。往壓はしばし揺れる表面を見つめ、グイと呷った。
酒を注いでくれた花魁の横顔は、まさしく奇士の仲間のもの。だが普段とは違い、目尻に紅を差している姿は女のそれ。
往壓は知らず口内に溜まっていた唾を飲み込み、その横顔から目を背けた。
今部屋の中には、眠りに付いている宰蔵を除く四人の奇士と、嬉野しかいない。
元閥と嬉野は酒を注ぎ、往壓とアビはそれを飲み干す。放三郎はやはり真面目な堅物なのか、先程から一滴も口にしていなかった。
放三郎はただ手に持っていただけの盃を盆へと戻し、元閥に向き合った。



「宰蔵の容体は」
「一向に目を覚ましません。ただ、おそらく怪異は髪に関係あるかと」



髪?と往壓が復唱した。元閥はそれに頷きで答えると、今までの経緯を隠すことなく三人へと伝えた。
昨晩の被害は宰蔵だけだったこと。体温は高いのに汗はかかぬ異常。
そして宰蔵の首に絡み付いていた――髪。
その髪が元閥の指を傷つけ、消えたこと。
全て余す所なく伝えれば、三人が一様に信じられないとでも言うような表情を浮かべていた。
だが元閥がこんな重要なことで嘘など吐かないと知っているから、皆神妙な顔つきで元閥を見つめている。
そんな三人の表情をちらりと見つめ、元閥は手にしていた瓶子をそっと盆の上に乗せた。
そして―――数瞬走った痛みに、顔を歪めた。
右手の人差し指が、やけにズキズキと痛むのだ。そこはあの不可思議な髪が絡みついた部位。
やけに嫌な予感が頭を過ぎったが、まだ微かな傷が残っているのだろう。特に気にも止めなかった。



「髪、か…髪は女の命っていうしな。ここにはもってこいか」
「竜導!」
「間違っちゃいねぇだろ。頭が固すぎなんだよ、アンタは」



言葉が詰まったような表情を浮かべた放三郎は、諦めたように溜息を零す。
ふふんと一瞬勝ち誇ったような顔をしたが、往壓はすぐにキツと真面目な表情を浮かべた。



「――――――お前さんは、大丈夫なのか?」
「え?」
「ここまで来ちまえばこれは明らかに妖夷が関係してんだろ。そんな中、お前一人で大丈夫なのか」



心配、してくれているのか。
元閥は目を見開き、まじまじと往壓を見た。
嬉野はといえば、袖で口元を隠し、クツクツと笑っているではないか。
困ったような笑みを見せ、元閥はポンと往壓の肩に手を置いた。



「大丈夫に決まっているでしょう?こんな成りをしていても、儂は男ですよ?」
「だが……」



細く白い指先が、往壓の胸板を伝う。
往壓は擽ったそうに身を捩ったが、すぐにいつものような人懐っこい笑みに変わった。
ガタンと大きな音を立て、猪口が置かれた。
何かと思い音がした方を見てみれば、アビが無表情のまま立ち上がっている。嬉野が、ツンと元閥の脇腹を突付く。
目配せされ、ああ、と気づいた。



「アビ、厠か?」
「……一人で大丈夫だ」
「そうもいきんせんよ。ここは広いのでありんすから―――元閥様、お供して差し上げたらいかがでありんしょうかぇ?」
「いや、だが…」
「ふふっ、じゃあ、この元葉がお供いたしましょうかねぇ」



立ち上がり、元閥はアビに寄り添うような格好をした。
だがアビは不機嫌な表情を隠そうとせずに、ズカズカと部屋を出て行ってしまったではないか。
元閥は呆れたようにその背を見、少し小走りで大きな背を追いかけた。













* * *













「アビ…アビっ!」



身長の差は、ここまでの差をもたらすものなのか。
元閥は前の背が遠ざからないように付いていくので、精一杯だった。
普段ならばアビが元閥の後ろを歩くか、そうでない時は歩幅をあわせるか。そうやって元閥にあわせてくれていたのに、今日は違った。
自分の歩幅で、自分の調子で歩き、後ろに付いて来る元閥のことなどまったく気にしていない風の、それ。
正直――気分が悪い。
何かしたか、と問われれば胸を張ってしていないと答えられる。
この男を不機嫌にするようなことなど、何一つ。



「っ…アビ!!」



駆け、その袖を掴んだ。
町人にでも扮しているのか、深藍の着流しを着ている男は、先程とまったく変わらぬ仏頂面で振り向いた。
その表情に、自然元閥の表情が険しくなる。
己より背の高い男の胸倉を掴み上げ、ギンと、睨み付けた。
白い二の腕が露になるのも気にしない姿は、他の客や女に見られたら不味いだろう。
だがここは廓の中でもかなりの最奥。ちょっとやそっとでは気づかれぬ、死角。
日の光がぼんやりとしか入らない死角は、やけに湿気ている気がした。



「なんださっきから!仏頂面を更に顰めて…大体、皆でここに来ると提案したのはテメェなんだろ!?」
「そうだ」
「酒呷って、一言も喋らないで…!」



何を考えているんだ。
凛、と響いたその声は、かき消される。
背を衝撃が襲い、一瞬息が詰まった。喉に絡み付いた空気を吐き出すように咳込み、元閥は先程とは比にならぬほどの視線をアビへとぶつけた。
胸倉を掴んでいたはずの手を、力一杯握られる。痛みに顔を歪めれば獣は、空いている方の腕で元閥を捕らえた。



「っう……!!」
「貴方のこと以外、考えていない」



反論しようとして、出来なかった。
唇を吸われ、更に壁まで押しつけられる。逃れようにも身に纏う衣が邪魔で、うまく動けない。
口内を蹂躙され何も考えられなくなりそうで、怖かった。





――――今、目の前にいるのは一体誰なんだ?





こんな獣、知らない。
手負いの獣でもなく、獲物を見つけた獣でもなく、こんな獣なんて。
ただ狂った瞳をしている、こんな獣、知らない。



「ん、ぅ……!!」



普段ならば嬉しくて、嬉しくて堪らないのに。
いつも己から接吻けて、愛されているのか分からなくて。―――苦しかったから。
なのに怖い。怖くて怖くて怖くて、怖くて。
この男が、怖かった。



「よせっ!!」
「っ!!」



噛み付くような接吻けをしてくる唇を、本当に噛んでやった。
口内に広がる鉄錆の味を吐き出し、拘束から逃れる。
揺らいだ瞳が、精神を拘束して。―――苦しかったから。



「儂のこと以外考えていないなど…っ、ふざけるな!!仕事を何だと思ってる!!」
「それによって貴方の身に何か起きたら!」
「儂のことはどうでもいいんだ、宰蔵を助けなければいけないだろ!?」
「そんなことどうだっていい!!!」



乾いた音が響く。
嬉野に元閥がされたことを、そのままし返した。大きな音を立て木の壁いっぱいに反射した音は、何度か響き、消える。
ただ冷酷なまでの無表情さで、アビを見上げていた。
怒りに唇を震わせた様は、今まで彼が見せたことのないもの。



「…どうでもいい、だと…?仲間のことを、どうでもいいと言うのか…?」
「違…」
「……失せろ」
「……!!」



クルリと踵を返せば、甘い香の薫りが鼻腔を擽ぐる。
シャナリと衣を揺らす背は、震えていた。一歩一歩と離れていく姿に伸ばした手は―――髪を、掴む。



「な―――!?」



慌ててその手を引っ込めれば、まるで錯覚だったとでも言わんかとばかりに、髪が消えた。
だがアビの手には確かに、残っていたのだ。
濡れた髪の感覚が―――。

















【続】