胡蝶の夢  四








白い蝶が遊び相手でした。
臓腑が鞠の代わりでした。
手鞠唄は、いつも嬶様の子守歌でした。
髪が、衣でした。
黒い黒い、美しい衣でした。
そして私は、誰よりも大きな籠にいる、何よりも大きな蜘蛛でした。



























嫌な感触だ。
アビは先程感じた感触を忘れたくて、何度もその手に冷たい水を流した。
そしてその手を頬によせ、眉根を顰めた。痛みは退いたものの、まだ痛い。
矛盾している表現だが、そうとしか言い様がないのだから仕方がない。とにかく、肉体的に、ではないのは確かだが。
アビは感覚が麻痺するほど冷えきった手を撫で、フルリと一つ、身震いした。



(さっきのは、一体…)



確か妖夷は『髪』に関係しているかもしれないと言っていた。ならばあれは、妖夷の片鱗だったのか?
だがそれが何故、元閥から。





『どうやら妖夷は、髪に関係しているかもしれません』



髪。
濡れた、髪。
宰蔵の首に巻き付いていた―――。




『儂の指に―――』




――――しまった。
アビは顔色を変え、元閥が去った方をギンと睨み付けた。
そして、駆け出す。
足下の木が、軋んだ。












* * *













「客?」
「えぇ―――なんでも、元閥様に見惚れたどこぞのお大尽様が、花代を倍出すからどうしても、と…」
「待て、それはまずいぞ。江戸元は確かに女のように見えるが、男だ。客など取ったら…」
「あの人は預かりものでありんすからと申したんでありんすが…更に倍を出すなどと言われて、おっかさんが了承しちゃったんでありんすよ。
先方も酌だけで構んせんからと仰るものでありんすから…」



困ったように頬に手を添えた嬉野は、ちらと元閥に目配せした。元閥も呆れ顔で溜息を吐く。
だがやがて立ち上がり、部屋の戸に手を掛けた。
力をこめた途端後ろから筋張った手が重ねられ、なんぞと振り向いた。



「………竜導殿」
「指一本でも触れられたら、終わりだぞ」



その真剣な眼差しに力強い頷きで答え、元閥は艶やかな唇にそっと笑みを浮かべた。
やがて諦めたように手を離した往壓から視線を放三郎へ移し、ただ無言で部屋を出た。












* * *












私の唄は嬶様の子守歌でした。
遊び相手は白い蝶でした。
遊び道具は紅い臓腑でした。
衣は美しい髪でした。
黒い黒い、ただ闇だけの衣でした。











* * *











部屋の中に充満している酒の匂いに、顔を歪めた。何本もの酒瓶が列を成し、そのどれもが高級な酒ばかりで、元閥の中に言い様も知れぬ嫌悪感が生まれた。
後ろしか見えぬが、その背はピンと整っており、身に纏っている衣は最高級品だろう。酒に交じる香の薫りは、甘い。
後ろ手に戸を閉めれば、男が振り向いた。



「―――元葉殿、ですか?」



透き通る声は、初な娘なら骨抜きにされるだろう、心地良い低音。
整っている鼻筋に涼やかな目元。言ってしまえば美丈夫。
だがそんな好印象も、その肩口を一瞬でも視界に入れてしまえば、消えてしまうだろう。
諸肌出した肩口に彫られた、白い、白い、白い、蝶。
本物の蝶と見紛うばかりのそれは、よっぽどいい腕の彫師が描いたのだろうか。
男は酒瓶を脇に寄せると、ヘラリと人の良い笑顔を浮かべ元閥に手招きをした。
思わず笑みを返し、なるべく音を立てないように一歩近寄る。その度に広がる甘い薫り。嫌いではないが――気に食わない。



「すみません、無理に呼んで」



どうぞ、と隣りに促されてしまえば座る以外に手立てはない。多少の距離を置き、腰を下ろした。
ジツと見つめられ、目を逸らす。黒曜石のような漆黒を湛える瞳は、透き通っていて、澱んでいた。
沈澱している不純物を、無理矢理水底に溜め込んでいるような、矛盾だらけの純粋さ。



「注いでいただけますか?」
「え、あ―――申し訳ございません」



盃を差し出され、元閥は白濁色の酒を注いだ。淡く浮かぶ桃色が、桜の華弁に見えて、やけに美しかった。
紅を塗っていないはずの唇に、それと同じ淡色が浮かんでいる。酒が通る度に上下する喉元は、病的なまでに白い。
空になった盃に再度酒を注ごうとすれば、それは男の手によって遮られた。
やんわりと掴まれた手首を見開いた目で見つめ、元閥は眉を顰める。
困ったように男を見て、元閥はジリと膝を半歩近く退ける。



「………おやめくださいませ。酌だけでよいと――」
「貴方は、廓言葉では喋らないのですか」



力が、強くなる。
骨が軋むかという程の力で手首を握られ、喉奥で小さな呻き声をあげた。
だが気取られぬよう男を見つめ―――白い蝶に、囚われた。



「お離しくださいませ」
「細い手首だ――まるで、れっきとした女のようですね」



ギクリと、背筋が強張ったのが己でも分かった。驚愕の色で染めた瞳を男に向ければ、先程と変わらぬ笑みが元閥に贈られる。
逃れようと力を込めれば、更に男の手が強くなり、それに比例してこちらの力が抜ける。
これでは埒があかぬと裾が翻るのも気にせずに足を立て、だがしかし体勢を崩した。
甘い薫りに抱かれ、元閥は男の胸板を、ドン、と一つ叩いた。
別に背に手が回されているわけでも、なんでもない。抜けた力から逃れた手首は、多少の痣は浮かんでいるだろうが抵抗するに支障はないだろう。
だと言うに―――何故、逃れられぬ?
元閥より多少体格は良さそうだが、背格好は放三郎とほぼ同じ。逃れられぬはずがない。
助けを求めようと開いた唇は、ただ無意味にまでに空気を吐き、言葉を紡がなかった。



「遊び相手は白い蝶でした」



何を、と問おうとした言葉は、やはり同じように空気となり溶けた。視界に霞がかかりそうになるのを堪え、肩口の蝶を、睨み付ける。
美しかった蝶は、今はただの醜い蜘蛛。
蝶の皮を被った、静かな狩人。



「遊び道具は、紅い臓腑でした。
手毬唄は、嬶様の子守歌でした。
衣は、漆黒の髪でした」



髪。
遊び相手は蝶。
遊び道具は臓腑。
手毬歌は子守歌。
衣は、漆黒の髪。



「そしてあれは――誰よりも大きな籠の、何よりも大きな蜘蛛でした」



嗚呼そうだ。
この男は、妖夷ではない。ただの人間だ。
聞こえる鼓動は確かに生者のもの。
感じる体温は確かに生者のもの。
ゆっくりと瞼を下ろした元閥の薄れゆく意識の片隅に、蝶が舞い降りた。












* * *










アビが往壓達の元に飛び込んだのが、ちょうど元閥が部屋を出てすぐのことであった。
騒がしく乱暴な足音を立て、これまた同じように戸を開いたアビは、開口一番「元閥」と怒鳴った。
何事かと往壓が含んでいた酒を吹き出し、ゲフゲフと咳込んだ。



「っ、おい何だよアビ。急に――」
「元閥は、元閥はどこですか!?」



胸倉を掴まんばかりの勢いで放三郎に詰め寄ったアビの頬に気付いた往壓は、目元を軽く朱に染めカラカラと打ち笑う。
アビが険しい形相で往壓を見れば、四十路近くの男は口許辺りの酒を拭った。



「お前さん、元閥に何かやらかしただろ。そんで弁解するために捜してんじゃねえのか」



だがそんな皮肉――今のアビには通用しない。



「元閥が危ない。今妖夷に狙われているのは、アイツなんだ」
「な――んだと!?アビ、どう言うことだ!」



途端顔色を変えた放三郎は、脇に控えて置いた刀を二本、腰へと差し直した。
往壓も冗談など言える場合ではないと、表情を一瞬にして強張らせる。盃を盆の上へと戻し、アビへと向き直った。



「元閥が狙われているという根拠は」
「髪だ。元閥は確か宰蔵さんの首に絡み付いていた髪が指に巻き付いたと言っていた。
もしそれが妖夷の片鱗だとしたら、妖夷は『髪』を頼りに、元閥を狙うかもしれない」



さぁと血の気が全て退いたかのように顔色を真っ青にした放三郎は、だがすぐに覚醒し、声を荒げた。



「江戸元が呼ばれたという座敷は!?」
「確か奥方にある蝶の間だったと――」
「行くぞ!」



嬉野の言葉を最後まで聞かず、三人は部屋を飛び出した。途中他の遊女にぶつかりそうになったが、そこは気になどしていられない。
多くの遊女や客の精気を奪い、宰蔵をも襲った妖夷。今度はそれが元閥を狙うかもしれない。
ここで食い止めなければ、いつ止めると言うのか。



(元閥―――)










【続】