胡蝶の夢 伍
伍
生温い風が、元閥の頬を擽った。
未だ霞が纏わりつく意識をなんとか覚醒させ、双眸を開く。やけに高い水音が反響し、鼓膜へと吸い込まれて行った。
ジャラと重い金属音が手足を拘束し、床を掻く。力を込めても解けないだろうそれは、元閥の手足をグルリと一周し、一本の棒にくくり付けられている。
だがその棒は一本ではない。同じような棒がまるで弧を描くように、壁から壁へ繋がっているではないか。
一筋の光すら入り込まぬそこは――まさに牢獄。
闇夜に浮かび上がった灯に、思わず目を背けた。
「目が覚めましたか」
「――儂になんの用だ」
口元に嘲笑を浮かべ、元閥は灯を睨み付ける。顔半分のみ照らし出された姿は、やけに悍ましい。
元閥の頬に、乱れた髪が一房落ちた。
この男は操られているだけ。
元閥は今、この瞬間、それを確信した。
暗がりに浮かぶ灯が映し出す、蜘蛛の糸。――いや、長い、髪。
それが男の四肢に絡み付き、まるで見えない操り糸のようではないか。そしてその様は、蜘蛛に捕らわれた蝶。
ならばその蝶に捕らわれた己は―――なんだというのか?
「ただの人間が、何故妖夷に荷担する?」
「妖夷とは――あれのことでしょうか?」
フ、と灯が横に動き、自然元閥の目もそちらへと動く。淡い橙に照らされたそれは―――女とも、蜘蛛とも捉えられぬ有様だった。
ぼろぼろの白い襦袢を身に纏い、埃だらけの床に触れる足は、素足。
だが身に纏っている物とは対照的な、異様なまで長く、美しい黒髪。
前髪で隠されている顔は口元しか窺えず、そこは穏やかな微笑を湛えていた。
白い骨と皮だけの指は、紅い鞠を抱えていた。
「お前は――!?」
「―――何故、女の成りをしているの?」
か細く消え入りそうな声が、耳に届いた。
血の気の失せた青白く、薄い唇が紡ぐ言葉は、まさに狂気であり凶器。
おそらくまだ二十にもなっていないだろう娘が、何故そんな気を発せられるのか。元閥はそれが不思議でならなかった。
「それは、」
「きらびやかな衣を着て、美しい化粧をして。明るい陽の下にいて――」
元閥はなんとかこの鎖から逃れようと力を込めた。だがそれは悪戯に手足の痣を広げるだけで、大した効果は得られなかった。
奥歯を噛み締め、淡々とした口調で言葉を紡ぐ女を、ただジツと見つめていた。
先程から全くと言っていいほど変わらない表情。
浮かぶは、穏やかすぎる笑み。
足下から漂う、絡み付くような重苦しい空気。
そして髪の間から見えたのは――灯に照らされた、幾数、幾百個もの、紅い、眼。
「―――っ!?」
後退ろうとしても、身を束縛する鎖がそれを許さない。ただ無意味に元閥を締め付け、逃れることを更に困難にするだけだった。
ザリと埃を踏む嫌な音が響き、その音と呼応して、女が近付いて来る。逃れることは、不可能。
チクリと刺すような痛みが元閥の指を襲い、顔を歪める。何かと思い痛みの走った箇所を見れば―――そこは、まさに地獄絵図と呼ぶに相応しい有様だった。
「い゛っ……あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛ああっ!!!」
堪らず、元閥の喉から絶叫が迸る。
指に絡む幾本もの髪を伝い、無数の子蜘蛛が指を這い上がっていた。わらわらと蠢くそれらは、あるものは腕を、あるものは腹を、ただ這っていたのだ。
生理的嫌悪に背筋が痺れ、元閥は藻掻いた。
それこそまさに、蜘蛛獄地獄に捕らわれた獲物ではないか。
結い上げられていた髪が解け、無機質な音を響かせながら簪が床に落ちる。
肌を這う蜘蛛の感触に、意識が飛びそうになる。
「蜘蛛は、お嫌いかしら?」
「好むはず、ないだろうが!!」
憎まれ口を叩き、元閥は女を睨み付けた。それでも表情を崩さない女は、ただ微笑んでいた。
まるで従者のように脇に控えていた男が、跪き、埃に濡れた女の足の甲に、そっと唇を落とした。
(畜生っ、畜生畜生畜生っ!!)
首筋を、一匹の蜘蛛が這った。
熱い。
感じたのは、たった一瞬だった。
轟、と暗闇を焔が照らし、埃が燃える匂いが元閥の鼻を刺す。加え、髪が燃える独特な匂い。
元閥の指に絡み付いていた髪を焔が伝い、蜘蛛諸共、燃え尽きる。
女の笑みが、消えた。
「――ようやく、見つけたぜ」
ぎぃと重い音を立て、戸が開いた。蝋燭の灯に照らされるは、奇士。
浮かび上がっていたのは、『神火』。
「蜘蛛に取り憑かれた哀れな娘――」
「誰…?」
突き出される、往壓の掌。
焔を纏う、アビの槍。
鈍く光る、放三郎の刃。
そして往壓は不敵な笑みを浮かべ――凛と、言い放った。
「公儀御役目"蛮社改所"――奇士」
無数の眼が、妖しく光った。
放三郎は刀を青眼に構え、女を見据える。
その隙にアビが放三郎の横をすり抜け、牢獄へと駆けた。檻を塞いでいた閂を力一杯引き抜き、元閥の前に膝を付いた。
「ア…ビ」
「だから、反対だったんだ」
元閥の四肢を束縛していた鎖を解きながら、アビは溜息を吐いた。
細い手首に刻まれた痣を見、眉を顰める。
乱れた髪をそっと撫で、アビは心底安堵の表情を浮かべた。
「貴方が危険な目に合うと、分かりきっていた。だから止めろと――」
「アビっ…!」
衣擦れの音を立たせ、アビの首筋に抱き付く。
一瞬驚愕を浮かべたアビは、それでも、元閥を優しく抱き締めた。
そして、
「――無事で、良かった」
心の底から、そう呟いた。
「昔、ここに一人の遊女がいた」
抑揚の乏しい声で語りだした放三郎に、女の笑みが凍り付く。
嫌々をするように頭を振った女の動きに合わせ、髪が揺れる。
「女は客と恋に落ち、逃げ出した」
「だがそんなの御法度だ。――当然二人は連れ戻され、男は斬首。女は冷たい冷たい牢獄で生涯を終えた」
一歩、往壓が女に近付く。
コキリと骨を鳴し、恐ろしいほどまでの緩やかな動きで、右手を突き出した。途端眩しいほどの光が右手を覆い、輝く。
「だが女は子を身籠もっていた。――それが、女郎蜘蛛となったんだ!」
浮かび上がる、釵(かんざし)の文字。
女の胸元から引き出されたそれは、往壓の掌で、新たな形を作り出す。
刺叉と呼ばれるそれは通常の物と異なり――先端部分が、刃と変じていた。
「お前は、母を失った哀しみを妖夷に憑け込まれた、哀れな娘だ」
「黙れ…黙れ黙れ黙れ!!」
「―――今、助けてやるからな」
髪を振り乱し往壓へ駆け出した女は、泣いていた。
紅い紅い幾数もの眼が、泣いていた。
往壓が突き出した刺叉が、間髪入れず女の腹を貫き刺した。壁に捕らえるように固定された女は、逃れようと藻掻く。
往壓の腕を、子蜘蛛が這った。
「っ、ぅ――!!」
「竜導!!」
白刃閃き、子蜘蛛を伝わす髪が途切れた。
放三郎はそのまま羽織りを翻し、男の鳩落へと刀の峰を食い込ませる。男はぐぅと潰れたような声を上げ、放三郎の足下へ崩れた。
「っは、見直したぜ」
「ふん」
照れ隠しなのかふいと往壓から視線を外す。
往壓はそんな放三郎を見て苦笑いを浮かべたが、すぐに、女をジツと睨み付けた。
なおも逃れようとする女の瞳は、涙を流したことにより更に充血しており、鮮やかな紅と化していた。
「――観念しな」
「ゥ゛…ッ」
「待ってください竜導殿」
力強い声が、往壓の動きを止めた。
見ればそこには、アビに背を支えられながら立ち上がる、元閥の姿。
その手が持っていたのは、螺鈿細工の見事な、紅い、紅い簪だった。
女はそれを目にした途端顔色をサッと青ざめ、まるでそれを取り返すかのような動作を繰り返す。
その様子を見て、元閥は、哀れむかのように、呟いた。
「――幽閉された女はここで子を生んだ。だが、当然死産。女は三日三晩嘆き苦しみ、そして死んだ。――己の胸を、簪で貫いてな」
「嬶…様…」
「これは、お前の母が共に逃げた男からの――贈り物だったのだろう?」
柔らかな鈴の音を立て、揺れる簪。
元閥は女へと近付き、そっとその髪へ触れた。
当然女は身を強張らせたが、だんだんと眼を閉じ、元閥の指に全てを委ねるかのような表情を浮かべ始める。
「宰蔵を襲ったのは、今を生きる子への恨み。そして儂を襲ったのは――男と、遊女としてあってはならぬ不義を行っていたから」
「ァ…」
「お前は、ただ生きたかっただけではないのか」
「生キ…タカッタ…?」
「母と父が、迎えに来てくれると信じて」
綺麗に結い上げられた髪に、螺鈿細工の簪が挿される。
その艶やかさ、見事。
女の眼は、もう紅くなかった。優しい優しい、女の眼をしていた。
元閥は結い上がった髪を一撫でし、その眼を、見つめた。
「境遇を、母を、父を――己さえも怨んだ。ただ、生きたかっただけなのに」
「…私ハ…」
「…もう、お休み」
元閥の掌が、優しく瞼を下ろしてやる。女は唇で何か言葉を形作り、泡と変じた。
泡となり、融け―――後には、簪が落ちているのみ。
元閥は己の手の中に残った簪を懐にしまい、ゆっくりと戸を見つめる。
―――優しい女の声が、子守歌を歌っている気がした。
* * *
宰蔵が目覚めたという知らせを受けたのは、それからしばらくのことだった。
己の手首に残っていた痣を擦り、元閥は先程懐にしまった簪に着物の上からそっと触れる。
「江戸元、どうしたんだ?」
「あぁ、いや――目が覚めて良かったな、宰蔵」
大事を取ってまだ床に付いていた宰蔵の頭を撫でてやり、笑みを贈ってやる。
一瞬頬を膨らませた宰蔵だったが、やがて照れたように微笑み返した。
「お頭、申し訳ありません。このような失態を犯して」
「構わない。無事で良かった」
「ま、終わり良ければ全て良しってな」
放三郎と宰蔵の頭を撫でれば、両者揃って凄い剣幕で往壓を睨み付けた。
往壓は苦笑いを浮かべ、二人を見た。
「―――アビ。すまなかった」
三人に聞こえぬように呟けば、隣りで腰を下ろしていたアビは目を瞬かせてジッとこちらを見てきた。
未だ簪を撫でたまま、言葉を紡ぐ。
「叩いたりして」
「あぁ…いや、別に」
すると元閥は何かを思い付いたかのように簪を取り出すと、乱れを直した髪にそっと挿す。
アビが何やら慌てたような声を出したが、あえて気にしない。
先程よりも澄んだ音を響かす簪に、元閥はそっと指を添わせた。
遊び相手は白い蝶でした。
遊び道具は紅い臓腑でした。
手毬唄は嬶様の子守歌でした。
衣は黒い髪でした。
私は、誰よりも大きな檻にいる、何よりも大きな蜘蛛でした。
そして想い出は――嬶様の、簪でした。
【終】