温かい泉で一緒に
高く、澄んでいて、でもどこか抜けている音が、柔らかな夜に溶けて行った。
【温かい泉で一緒に】
こんなに穏やかなのは久しぶりだ。
往壓は鼻歌でも歌いそうになる己を律し、ふぅと一つ、息を吐いた。
ゆっくりと天へと上がって行く白い湯気は、闇の黒と混じり何とも言えぬ情景を浮かび上がらせている。
ただ、闇と言っても淡い月明りが照らしているため暗いとは言えない。澄んだ空気のお陰か、はたまた雲一つない空のお陰か。
月も星も、美しく輝いていた。
場に似合わぬ陶器の擦れ合う音が響き、往壓はその方向を見た。
湯に入らないようにか、長い髪を結い上げている男が、口元に艶微笑を浮かべてこちらに盃を差し出しているではないか。
「一献、いかがですか?」
男とは思えぬ男――江戸元閥は、そう言った。
見れば元閥の隣に陣取っている大柄な男、アビも当然のように盃を傾けている。これでは断ることも出来まいと、往壓は無言でその盃を受け取った。
すると満足したように笑んだ元閥は、己の盃にも白濁色の酒を注ぎ、飲み干した。
岩の上に置かれた盆の上には、大きめの瓶子が三本と、普通の瓶子が五本。いったいどうすればそこまで飲めるのかと感心するほどだが――まぁ違和感はない。
蟒蛇、笊、枠。こいつらはそんな奴なのだ。
つまり、酒に強い。
往壓は先程と違う意味で一つ息を吐き、盃を見つめた。
白濁の表面に、微かながら月が映っている。少し揺らしてやれば小さな波が立ちその姿は歪むが、またしばらくすれば元の姿へと戻る。
まるで月を玩具にしているような錯覚に陥り、往壓は苦笑いを浮かべた。
ぐいと呷り、意外と甘い味に驚いた。
例えるならば、桜か。
それはまるで夜桜の酒。
「―――美味い」
「ふふっ、でしょう?なかなかの上物なんですよ」
味わうように口の中で転がしてから、嚥下する。
見れば元閥はすでに新しく酒を注いでおり、往壓もそれに便乗するように空になった盃を差し出した。
「竜導殿は、酒は強いのですか?」
「まぁな。人並みには飲める」
「ならば結構。――あぁ、こちらの酒などいかがですか?」
言い、元閥が差し出して来たのは、まだ開けていない瓶子。その証拠とどうか言えるかは分からないが、口が紙で塞がれ、おそらく安くはないだろう紐で結わえられていた。
往壓は躊躇うような素振りを見せたが、それも一瞬。
元来酒は嫌いではない往壓は、短く「飲む」と告げた。
「どうぞ」
注がれたのは、先程とは違い透明な酒。
濁り一つないそれに、往壓の喉が鳴った。
促されるまま飲んで――後悔した。
「!? ガハッ、ゲホッ!!」
「あっははは!さすがの竜導殿でもそれは厳しいですか!」
鈴の鳴くような声でカラカラと楽しげに打ち笑う元閥は、まだ大量に入っているだろう瓶子を揺らした。
喉を襲う灼熱の痛み。
不味い酒かと問われれば、違うと言える。
だが――強いのだ。しかも、かなり。
どれだけ強い酒なんだと思い、往壓は甘い酒を盃へ移すこともせず飲む。
ようやく落ち着いた熱さを糧に――往壓は元閥を睨み付けた。
「元閥、お前何飲ませやがった!」
「何って――酒ですよ。ただし先程のより純度が高く、強い酒ですが」
悪びれもせず言い切った元閥に呆れ、往壓は助けを求めるかのような目でアビを見つめる。
だが、愕然とした。
アビが今飲んでいる酒は――まさか。
「ア、アビ?…お前、それって…」
「…全然、らいじょうぶれす」
どこがだ!
そう怒鳴りそうになったのを何とか抑え、往壓は今度こそ強く元閥を睨み付ける。
当の本人は至極楽しそうに、その様子を見つめていた。
明らかに舌が回らなくなっているアビはそれでも一口、二口と酒を飲んでいる。慌てて止めようとしたが――時すでに遅し。
半分以上入っていたはずの瓶子が、空になっていた。
飲み干してしまったと言うのか、あれを、全て。
顔を赤く染め、据わった瞳でギロリと水面を見つめるアビは、明らかに兇悪な雰囲気を纏っていた。
往壓は数瞬たじろぐ。
「な、なぁアビ。もう上がった方がいいんじゃねぇか」
「…まらまら、らいじょうぶれす。往壓さんも、一献いかがれすか」
「………いや、遠慮しておく」
完全に酔っている。
往壓は胸中で海よりも谷よりも深い溜息を吐き、この原因を作り出したであろう男をジツと見つめた。
どうやら元閥も少々やり過ぎたかと感じたのか、額を押さえ困ったように眉根を寄せている。
「……アビ、上がれ。そして飲むな」
「元閥…?何を言うんら。俺は酔っていないしまら飲める」
「明らかに酔ってる。酔って舌回らなくなってるから、とにかく上がれ」
まるで幼子を窘めるような口調でに言い、元閥はその手に収まっていた盃を有無を言わさず奪い取った。
そしてアビとは逆――往壓の側にそれを置く。
「上がれ」
「アビ、ここは大人しく言うこと聞いとけよ」
「…嫌ら」
「アビっ!」
「往壓さん、俺が上がったら元閥に何かする気らろう!?」
沈黙。
アビは獰猛な瞳で往壓を睨み付け、一つ、鼻を鳴らした。
そして二人の間にその巨躯を潜り込ませると、まるで往壓から守るように元閥を抱き締める。
ギュウギュウと捨てられた子犬――いや、大型犬に擦り寄られては堪ったものではない。
元閥はジタバタ藻掻きながら湯を叩き、質の悪い大型犬から逃れようとする。
「こらアビ離せっ!」
「らめらって言ってるらろ!?」
「はーなーせぇぇーっ!!」
逃すまいと抱き付く犬に、逃れようとする飼い主の図。
もう直ぐにでも泣くのではないかと思えるほどのアビの必死さは、正直怖すぎるほど。
普段からの年の割に落ち着いている姿はどこへやら。
年相応、どころかこれでは宰蔵以下。
そう、こんな光景をどこかで――。
「そうか、母親を父親にとられまいと頑張るガキの図」
「竜導殿っ!!」
「………夫婦?…元閥と、往壓さん、が……」
アビは元閥と往壓を交互に見て、目線を往壓に定める。
呆けたような目が段々険しくなり――あろうことか、投げたのだ。
散乱していた空の瓶子を、力一杯、往壓に。
「―――おぉうっ!?」
凄まじい風切り音が往壓の頬を掠めたかと思えば、直ぐさま響いたのは、陶器が割れる音。
ギギギと絡繰音でもしそうな雰囲気で首を動かすと、視線の先には無残に砕けた瓶子。
慌ててアビを見れば、あろうことか次の瓶子に手をかけているではないか。
まさかまさかまさか。…投げる気か。
「え、おい、ちょ―――」
「アビっ!」
場を震わす怒声。
アビに抱き付かれたままの元閥の声だった。
それとほぼ同時に、元閥の肩口に凭れかかるアビ。
何が起こったのか理解出来ずにただ防御の体勢を取っていた往壓は、二人から目を離せずにいる。
やれやれと溜息を吐き、元閥はそっと意識を失ったアビを岩肌へ凭れかからせてやった。
眉を顰め寝息を立てる姿に、目の前の男が笑みを零したのに気付き、何故か不思議な気分になった。
「元閥、お前何を」
「なぁに――ちょっくら、鳩尾に一発」
「…実力行使、ってやつか」
笑顔で返された往壓は、この男だけは敵に回すまいと誓った。
【終】