親馬鹿子煩悩=…アビ?









ポトンと、何とも言えぬ音を発して蜜柑が落ちた。









【親馬鹿子煩悩=…アビ?】










「どうしたんだ、江戸元」

不思議な音にひょいと戸から顔を覗かせた宰蔵は元閥の格好を見て思わず眉を顰めた。
細い両の手いっぱいに鮮やかなまでの蜜柑を抱え、行儀悪く足で器用に戸を開けている元閥に近付き、宰蔵は廊下に落ちた蜜柑を手に取った。

「……おい。なんだこの蜜柑の山は」
「あぁ、市に行ったら親父が安くしてくれたんだよ。無下に断るわけにもいかないから、ありがたく買って来たんだ。ホラ、一個やろう」
「いらん!…いや、そんなことを言いたいんじゃない。なんでそんな大量に」

唇を尖らせ反抗する宰蔵に、元閥はその双眸をぱちくりと瞬かせた。
数瞬何かを考えるような素振りを見せ、うーんと小さく唸る。

「……なんでだろうねぇ?」
「買うなら一個でいいだろう?こんな大量に買った所で…」
「さぁね、ただ…」

一呼吸置いて、元閥は鮮やかな紅に塗られた唇を困ったように開いた。

「酸っぱいものが食べたくなったんだよ」

また一つ、蜜柑が落ちた。









* * *










そう言われてみればおかしい。
妖夷の肉以外を美味いと感じられぬ舌が、まさか蜜柑なんぞを求めるだなんて。
落ちた蜜柑を文句を言いながらも拾う宰蔵を見、次に両の手いっぱいに抱えた蜜柑を見る。
とにかく何か、柑橘類を摂取したかった。

「まったく…持ち切れないほど買ってくるなよ。………あ、竜導!ちょっと手伝ってくれ!」

ころころころと。
落ちた反動で転がった蜜柑が、通りがかった往壓の足にあたり、止まった。
それを宰蔵の方に投げた往壓は、首筋を掻いて二人に近寄って来た。

「なんだその大量の蜜柑は」
「あぁ。なにか急に酸っぱいものを食べたくなってねぇ…」

ホラ、と蜜柑を半分ほど往壓に渡すと、元閥は蜜柑を拾ってくれた宰蔵に微笑んだ。

「酸っぱいものってお前…孕んでんじゃねぇのか?」
「……竜導殿。儂は男ですよ?孕むわけないでしょうが」

呆れて物も言えぬとは、こういうことか。
女じゃあるまいしと付けたし――――元閥の腕から蜜柑が零れ落ちた。

「うっ…!?」
「お、おい江戸元!?」
「ちょ、どうしたんだよ!」

気持ち悪い。
吐気がする。気持ち悪い。
口元を押さえ元閥は二人を顧みることなく厠に駆け込んだ。
何度か咳込み、胃の中の物を全て吐き出すと元閥は懐紙で口を拭う。
荒い息を整え、厠から出ると宰蔵と往壓が心配そうな表情を浮かべていた。

「……元閥。お前、男、だよな」
「………えぇ」
「………そうだぞ竜導。江戸元が孕めるはずなかろうに」

足取りもおぼつかぬ体で一歩を踏み出し―――体が揺らいだ。
天地が逆転する感覚、目の前が白と黒だけの世界になる。
二人が何かを言っているのに、よく聞こえない。
足から力が抜け、崩れ―――。

「……っと」

――は、しなかった。
褐色の逞しい腕に包まれる形で、その場に踏み止どまる。
だが力が抜け、褐色の肌を持つ男――アビを巻き込む形で床に崩れ落ちた。
背をその胸に預け、元閥の意識は完全に途切れた。










* * *









あれは、三月ほど前のことだっただろうか。
良い人との睦事の最中に、元閥は相手に不可能に近い――いや、絶対的に不可能なことを願われていたのだ。





『元閥。――貴方の子が欲しい』





うっとりと囁くように言葉を紡いだ相手を元閥は呆れと困惑が混じった瞳で見つめる。
欲しいなどと請われても、産めるはずなどなかった。
産めるどころか孕むことさえ出来るはずはない。
―――元閥も、そしてこの不可能なことを願ったアビも、男なのだ。

『貴方と俺の子が欲しい』
『…馬鹿、かお前は…!産めるわけないだろうっ』

胸元に抱いていた頭をグイと引き寄せ、深紫の瞳で睨み付ける。
だがアビの瞳が『欲しい欲しい』などと訴えており、元閥は力一杯溜息を吐いた。









* * *










…そういえば、あの時始末をしただろうか。
ぼんやりと覚醒した頭が、ふいにそんなことを思い浮かべた。

子が欲しいと、儂の子が欲しいと、確かにそう言っていた。
産めるはずがないと、孕めるはずがないと分かっているのに。








ほんの一瞬だけ、







『お前の子が欲しい』と。









「目が覚めたか」

低く響いた声に、意識が一気に覚醒した。
そして己の手が何かに包まれている感覚。温かい。
ゆっくりと視線を上げれば、心配そうにこちらを見つめているアビと目が合った。

「……アビ…?」
「急に倒れるから心配した。体調が優れないのなら、そう言ってくれないと困る」

心の底から心配そうな表情を浮かべているアビに、ツキンと胸が痛んだ。
無意識のうちに、アビに握られていない方の手が腹に触れた。

「……アビ、儂は、子を孕んでしまったのかもしれない」
「………………は?」

予想通り素頓狂な声を上げたアビを、不安そうな瞳で見上げる。
目をこれでもかと言うほど見開いている男の手をぎこちなく触り、その手を腹へと導いた。
戸惑ったように眉根を顰めたアビだが、急に頭に花が咲いたかのように、それこそ『満面の笑み』とでも言うような表情を浮かべてみせる。
力任せに抱き締められ、元閥は息を詰めた。

「ア、アビ…?」
「貴方と、俺の子か…?」
「……多分」
「まさか、本当に…!…っ、嬉しい…」

力任せにギュウギュウ抱き締めて来るのだからたまったものではない。―――が、存外嫌なものでもなかった。
嫌な顔一つせず、むしろこんな満面の笑みで受け入れてくれたのだから。
嬉しくて、叶わぬ願いが叶い、目頭が熱くなった。
アビは優しく雫を拭い、それこそ年相応な笑みを捧げた。

「男だろうか、女だろうか。なぁ、アビ」
「どちらでも構わない。貴方との子なのだから」

これでは完全な惚気だ――。
近くに他の奇士がいたら、おそらくそう言うだろう。
だが、それでも顔が綻ぶのを止められなかった。






―――そして二人は完璧に失念していたのだ。
『男が孕めるはずがない』と言うことを。







「――――江戸元!」

すぱぁっんと何とも豪快な音を立て、襖が開け放たれた。
驚き、音の方向を見てみれば、そこには全力疾走してきたかのように息を切らした蘭学者がいた。
彼――小笠原放三郎はずかずかと部屋に足を踏み入れ、元閥とアビを引き離した。

「ちょっ…、御頭!?」
「江戸元、お前は安静にしていろ!明らかに流行病の症状ではないか!アビはとにかく粥を作れ、私は薬を持って来るから!」
「………は、」
「流行、病?」

二人は顔を見合わせ、ほぼ同時に放三郎に視線を移した。
鼻息も荒く額に血管が浮き上がりそうになっている放三郎は、まるで機関銃のように一気に囃立てた。

「眩暈吐気微熱――しかも何か一つの物を食したくなるなど、今巷で流行っている病に他ならないだろうが!全く、普段から体調管理を怠っているからそうなったのだぞ!?
おい、アビ!お前もうつるかもしれんから早く厨に行け!あぁ、粥にはしかと薬草をいれておけよ!」

放三郎はそれだけ言い部屋を飛び出した。
ドタドタと喧しい音と、何かに爪づいて盛大に転ぶ音が重なった。

「…あ、はははは…はは…流行、病…?」
「――――――っ…」
「つまり、悪阻かと思っていた吐気も、やけに酸っぱい物を食べたいなぁなどと思っていたことも、全部流行病のせいであって…孕んだわけではない、と…」

クククと自嘲にも似た笑みを零し、元閥は己の腹を再度擦った。
アビはそんな元閥を見、細かく震える手をギュッと握る。

「アビ、出た方がいい。うつったら大変だ」
「うつっても構わない」

ギュウと抱き締められ、元閥の目頭が熱くなる。
ぎこちなく腕をその背に回し―――絶句した。

「ちょっ、コラ待てアビ!!」
「俺にうつせば早く治るだろう」

尻に触れる感触。
帯が解かれ、パサリと落ちた。
引き剥がそうと背の布を引っ張ったが、効果はないらしい。

「それに――やはり、貴方の子が欲しいんだ」

放三郎が再度怒鳴り込みに来るのは、もうしばらく経った後。