それは、冷たい雨が降る夜だった。





【篠つく雨の夜に】





生まれ場所――山を焼かれ、この男は意識ふらつく中で町に降りて来た。何も覚えておらず、それでも男は山を焼いた存在…妖、というらしい。それだけは覚えていた。
雨をしのげる場所もなく、男は町外れの大きな木の下にその体躯を蹲らせていた。容赦無く篠つく雨が男の体を襲い、体温を奪っていく。

(…死ぬのか、俺…)

そんな考えが頭をよぎって、男は自嘲にも似た笑みを零した。


ふいに途切れた雨に、男は顔を上げた。視界に入ったのは炎と同じくらい赤い、緋い傘。

「…随分大きな子犬だねぇ…あぁ、いや。その目は野犬、かな」

艶やかな声。その声の主は漆黒の髪を束ね、煙管を手にしていた。

――コイツが、傘を?

「……アンタは?」
「ふふっ、わしかい?わしはこの近くにある神社の神主でねぇ…」
「神主?…アンタ、女…じゃない、な」

そう言うと目の前の人物は本当に愉快そうに笑った。

「おや、気付いたのはアンタが初めてだよ。…アンタ、山の?」
「……あぁ」

もう無いが、と続けようとした途端、目の前の人物が膝を折り視線を男と合わせた。男と比べ幾分か小柄な体で膝を曲げたせいか、男を下から見上げるようになってしまったが。

「…山火事から逃れて来た、ってとこか。名は?」
「名…?…名は…」
「…まいったね、忘却の病か」

すると数度唸るような仕草を見せ、目の前の人物は口を開いた。

「じゃあわしが名を付けてやろう。


…アンタの名は…」






* * *







「アビ」





呼ばれ、男――アビは振り返った。そこに立っていたのは、あの日アビを拾った男。
結局アビを自分の神社に招き入れ、そのまま共に住むようになった。男の名は――江戸元閥、という。



『阿鼻叫喚し山から逃れて来た野犬……アビ。それが、アンタの名だ』



あの日アビに名をくれた、大切な人。
前に才蔵に何故共にいるのかと問われたことがあった。



「アビ。…アビ?」



『守るため』だと思う。
『今』のアビを、その存在を唯一認めてくれた人だから。何もかもを失ったアビに、名という大切なものをくれた人だから。



「あぁ、今行く」



だから、俺は。
俺は、コイツを。






守る。