the second story













the second story











日曜日。所変わって山民。
小さな店の二階で寝起きしているアビは、この日ばかりはいつもより少しだけ遅く起きる。
寝ぼけ眼を起こすために冷たい水で顔を洗い、水滴を拭う。
そのまま台所へ向かい、昨晩の内に炊いておいた白米を茶碗によそい、手早く味噌汁を作った。
冷蔵庫を開けて漬物と昨日の余りである餃子を温めれば――朝食が出来上がる。
豆腐とネギが入った味噌汁を飲み、体を温めた。




朝食の片付けまで終わらせ、アビは寝間着代わりに身に纏っていたTシャツを脱ぎ、黒のセーターを着る。普段動きやすい服を好むアビにしては珍しいかもしれない。
そしてタンスの上で大切そうに白い布で包まれている物を掌に乗せ、ゆっくりと開いた。


―――十字架のネックレス。


曇り一つないそれが、一体どれだけ大切にされているのか。
アビはそれを首に回し、幸せそうに微笑んだ。












* * *












バイクで約8分程。そこにそれは存在していた。
アビは申し訳程度に用意された駐車場にバイクを停め、じっとそれ――教会を見上げた。
アビがこの協会に足を運ぶようになったのは、ちょうど半年程前だった。
呼び出されたのだ、竜導往壓という男に。








* * *






その日、山民の電話が鳴ったのは、開店一時間前だった。
電話の主はよく店に来る――常連、と言っていいのかもしれない――竜導往壓だった。
彼の声の後ろでは工事の音や数人の声がするから、おそらく仕事場なのだろう。
アビは背筋に嫌な予感が走ったのを、確かに感じ取った。



「何ですか、往壓さん」
『あー、アビ、悪いけど出前頼む!』
「は?ちょっ…」
『豚骨一つと炒飯な!場所は――』



そう一方的に、大声で言われてしまえばこちらに拒否する術はない。
アビの耳に流れ込んで来るのは、とうとう会話終了を示す機械音のみになってしまった。
溜息を吐き、アビは場所を確認する為に壁に貼ってある地図に目を移した。







「――往壓さん!」



そう大声で叫べば、タオルで汗を拭っていた男が振り返った。
アビの姿を認めるや否やにぃと子供のような笑みを浮かべたこの男こそが――竜導往壓なのだ。
アビはそんな男にムッと顔をしかめ、その表情のまま歩み寄った。



「あっはっは、いや、すまねぇなアビ」
「何度言ったら分かるんですか。ウチは出前は受けてないんです」
「近いからいいだろ」
「ったく、何子供じみた言い訳してるんですか」
「くくっ、ホラよ、お代」
「…まいど」



スッと差し出されたお代を受けとり、アビは踵を返した。
後ろの方でまた頼むぞなどとほざいている男に、アビはもう一度溜息を吐いた。
乗って来たバイクに跨がり――キーを回そうとした指が、止まった。
カツン―――。
鳥の声も、工事の音もうるさいのに、何故かその音が嫌に耳に入った。
アビはゆっくりと振り返り、目を見開く。



「貴方は――…?」



一瞬、女かと思った。
だがよくテレビなどで見る修道女の格好とは、どこか少し違う。
そしてアビは、思わず己の目を擦った。
改めてまじまじと見ても――そこにいるのはやはり女。
どうするか頭を悩ませている内に、女(一応今はこう言っておく)の方からアビへと歩み寄って来たではないか。



「あの」
「いや…教会の方ですか?」
「はい。ここで牧師を勤めさせていただいております」



話してみれば、すぐに分かる。多少可愛い――と言うか、艶やかと言うか。
そんな声だが、これは確かに男の声だ。
アビはホッと安堵したように肩を落とし、もう一度この牧師をじっと見つめた。
少し茶色がかった髪。体の線は明らかにアビより細く、触れたらすぐに折れてしまいそうだ。
項辺りですっきりと結わえられた髪に、なんら嫌悪感は浮かばない。
白い雪のような肌は、それでいて病弱な感じではなく、穏やかな笑みを浮かべている唇は、薄桃色。
極めつけは――その紫苑の瞳。
まるで幻想の世界の住人をイメージさせるような姿に、アビはしばし見とれた。
すると牧師は不審に思ったのか、柳眉を顰め、困ったようにアビからついと視線を外す。



「い、いや、すみません。綺麗な色だったもんでつい――」
「……この瞳、ですか?」



牧師は今度は眉を下げ、「色素が薄いんですよ」と説明してくれた。



「あの、何故ここに?」
「そこで工事している人に、ちょっと出前を」



前掛け姿にアビに納得したのか、牧師の肩から強張りが消えた。それでも牧師は、
まだどこか困ったような瞳で浴びを見る。
アビて頭一つ分違うから、どうしても見上げる形になってしまう。



「出前?――料理店か、何か?」
「あぁ。近所…と言える程近くはないですが、山民ってラーメン屋です」
「山た――…あぁ、もしや竜導さんがよく仰っている?」



りゅうどうさん?と聞き返して、あぁと己の中で納得した。往壓のことか。
彼の今の仕事はこの教会すぐ近くの道路工事。この牧師と親しくたって、おかしくはない。



「よく聞きますよ。店主に愛想はないがラーメンは美味いって」
「(…あのクソジジイ)」



誰が無愛想だ誰が。
アビは先程ケラケラと笑い顔を見せていた男を思い返し、胸中で舌打ちを吐いた。
今度奴が食べるラーメンに唐辛子でも入れておこうか。それも大量に。




「あの、山民さん」
「アビです」



間髪入れずにそう言うと、牧師はぷっと吹き出した。肩で笑う姿は、何とも愛らしい。
アビは緩みそうになった頬を引き締め、名を問うた。



「貴方は?」
「え?」
「名前」
「――あ、牧師、とお呼びください。皆様からもそう呼ばれていますから」



コロコロと鈴が鳴るような声に、アビは微笑んだ。
―――が、急に愕然としたように、アビは腕時計に視線を落とした。
顔を一気に青くし、バッと牧師に頭を下げた。



「もう少し話してたいのは山々なんですがっ、開店時間迫ってるんで…っ」
「そうですか…お引き止めして申し訳ありませんでした」
「では、失礼します」



「…あ、アビさん」



ザッと砂利を踏んで、牧師がアビの首筋に抱き付――いたわけではない。
アビが硬直している間に何やら作業を終えると、牧師はゆっくりとアビから離れた。
満足そうに笑みを浮かべた牧師は、アビの胸元で光っている十字架に触れる。
紫苑に映るアビの顔は、赤かった。



「また――来てくださいますか?」



十字架を貰ったあの日から―――、



俺の心は、あの牧師に捕らえられたまま。











* * *











アビは礼拝を終え、一目散に牧師へと駆け寄った。それでも牧師は嫌な顔一つせずに、アビに微笑みかける。
――牧師は、いつも微笑んでいた。
それ以外の表情は、初対面の時に見せた少し困ったようなもの。



「アビさん」
「また来てしまいました」
「主も喜びます。――それも、大切にしてくださっているようで」



牧師の視線に気付き、アビは照れたように顔を背けた。
二人以外出てしまった聖堂に、明るい陽が降り注ぐ。
いっそこのまま時が止まってしまえば――。



「熱心だねぇ、若者よ」
「年寄りは邪魔しないでください」
「まだ30代だ」
「10違えば十分です」



グイと肩にかかった重みに、アビは苦言をかけてやった。
それでも飄々としたままの往壓は、よ、と牧師に片手を挙げた。
それにも笑みで応えた牧師は、神壇に一歩踏み出す。
台上に広げてあった聖書を閉じ、ジツと往壓を見た。



「ホラ、往壓さん退いてください。帰りますから」
「もう帰んのか。んじゃ――」
「出前はしないって言ってるでしょうが」



一蹴し、牧師に一礼した。
会釈で応えた牧師は「またいらしてください」と澄んだ声で言い、祈りを捧げるように胸の前で手を組んだ。
その姿を目に焼け付け、アビは聖堂を後にする。
胸の十字架が、やけに鈍く光っていた。












美しい紫苑が、すぅと細められた。 唇が浮かべていた笑みは形を潜め、真一文字に引き結ばれている。
往壓はそんな牧師を視界に捉え、クツクツと喉奥で嗤った。
それは、他人の秘密を知っている者にしか浮かべることの出来ない、特有の笑み。
牧師は彼を睨み付け、ギリと歯ぎしりする。
だが動じていない往壓はその背に立ち、痩躯を抱き寄せた。
眉間に深く皺を刻み、牧師は身を捩る。



「止めてください」
「誰も来ねぇよ」
「主が見ています」
「黙れよ」



白磁の肌を這う手に、牧師は息を詰める。
表情の存在しない瞳は、ただ聖母を映していた。



「竜導さん――」
「――ん?」
「貴方には、私がどんな姿で映っていますか――?」



往壓は言う。



「――強いて挙げるなら、少女だよ。
戦って戦って、沢山の血に濡れて、それでも最後は神に裏切られ炎に焼かれた――
哀れな女兵士さ」



そして牧師は言う。



「だったら貴方はさしずめ――少女に嫉妬して焼き殺した、
傲慢な王様ですね――」



牧師は虚ろな瞳を往壓へ向け、豪火に身を焼かれる少女を聖母の中に見た。











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