the third story













the third story













「教会?」



迷惑な客は、そう聞き返した。
普段よりも早く来た元さんは(それでも閉店ギリギリなのに変わりはない)いつ も通りにラーメンを食べ終えると、アビがぽつりと漏らした相談に乗っている。
――いや、乗られてしまった。
相談よりも独り言に近いそれを思わず口走った途端、それがこの客に聞こえてし まったのだ。
元さんはサングラスの奥の瞳をアビへ向け、カウンターに頬杖をついている。



「聖道女にでも惚れたか」
「アンタに話す筋合いはない」
「いや、聖道女はいないな」
「うるさいな」
「牧師か」



ガチャガチャと洗い物をしていた指が、止まった。
目を見開きジツと見据えたアビに視線を合わせる。
元さんは当たりかと小さく呟き、やれやれとでも言うように溜息を吐いた。
白く、細い指がつぅとカウンターを伝い、氷がたっぷり入ったガラスコップに触 れる。



「好きなら言えばいいじゃないか。相手も望んでいるかもしれんぞ」
「そんなわけあるか」
「何故」
「……神様ってのは、同性愛を禁じている」
「…それが理由か」



ゾクリと、背が冷たくなった。
丸椅子から立上がり、元さんは我が物顔で厨房へと足を踏み入れた。
驚きの表情を浮かべているアビの胸倉をグイと掴み、サングラスの奥の瞳が彼を 睨み付ける。
濃い黒の奥にある瞳は、サングラスと同じ黒に染まっていた。



「神なんてものはね、信じてる人間の中に居ればいいんだよ」
「ふざけ…」
「牧師だからって神を信じてるとは限らないだろ。この世に本物の聖職者なんて いないんだよ。
…破戒僧、って知ってるか?」
「何言って…」
「戒めを守らないヤツのことさ。…案外、牧師様もその類いかも知れんぞ?」



頬に強い衝撃。
白磁の肌が見る見る内に紅に染まり、サングラスが外れなかったのは奇跡と言っ ても過言ではない。
フー、フーと獣のような息を洩らし、アビの瞳は凶悪な色に毒されていた。
一方殴られた元さんは、ただ冷たく、無表情で唇を引き結んでいる。
――端から伝う、鮮血。
元さんはそれをグイと手の甲で拭った。



「アンタが勝手なこと言うな!あの人の何が分かるんだ、あぁっ!?」
「――…のは、…だ」
「あ…?」



聞き取れなかった言葉をもう一度紡ぐ気はないらしい。
元さんは叩き付けるように代金を置き、力一杯引き戸を開閉した。
ガラス戸特有の音が響き――時計の針は、丁度閉店時間を指していた。











* * *











店が一気に騒がしくなったのは、その三日後の夕方だった。
その日は珍しく、久々に宰蔵が来ていた。彼――いや、彼女は、世界的に有名なフィギアスケーターである。
アビも何度かブラウン管を通して見たことはあったが、まさか近所に住んでいるなどとは知らなかった。
そして世間は本当に狭いということを、アビは同時に知った。
山民に来店する際、彼女は必ず男装をしてやって来る。最初はアビも戸惑った。
だが話してみればなんてことはない。どれだけ騒がれていても、彼女は普通の女の子なのだ。



「久々に食べると本当に美味しいな。アビ、おかわり!」
「それって毎日食べると飽きるってことですか。どうぞ」
「そりゃあな。毎日毎日ラーメンなんて食えるか。んーっ、美味い!!」
「まぁ久々に来てくれたお客に文句は言いませんよ」



口では苦言を言いながらも、アビの目は笑っていた。
この少女は本当に美味しそうにラーメンを食べる。だから作り甲斐がある。
アビはおまけの炒飯を、宰蔵の隣に置いた。
ずずっ、とラーメンを啜り、宰蔵は思い出したかのように顔を上げる。



「なぁ、アビ。そういえば毎日来るヤツがいただろ。元とかいう」
「…ここ三日は来てませんよ」



アビが彼の頬を殴った、あの日から。
アビは視線を手元に下げ、刻んだ葱をラーメンの上に盛った。
出来立て熱々のラーメンを注文していた別の客の前に置き、「お待ち」と言う。
厨房に戻ってみれば、宰蔵の隣に置いておいたおまけが、すっかり皿のみになっていた。



「アイツって何の仕事してるんだ?」
「知らないですよ」
「うーん…そうか」
「…宰蔵さん。あれと往壓さんは駄目な大人のいい例です。あんな奴ら見習っちゃいけません」
「…さり気なくひどいな、お前」



宰蔵は用が済んだ割り箸を置き、ふぅと一つ溜息を吐く。



「で、何故そんなことを」
「あぁ、それがな。日本に戻ってからすぐそれっぽいヤツ見かけたんだよ。
―――えぇと、どこだったかな。…教会、だったかな」



ピクリとアビの肩が揺れ、強張った瞳に宰蔵を映した。
だがそんなアビに気づいていないのか、彼女は曖昧な記憶の糸を辿るようにうーんと唸り、
大きい黒目を空に漂わせた。
目を閉じ、一つ一つ思い出すように、彼女は言葉を紡ぐ。



「あぁ、うんそうだよ―――結構遅くに入っていったんだよ。…確かあれは…」
「ア―――ビ―――ッ!!!!」



ガラガラとやけに激しい音を立て、戸が開いた。
何かと思い視線を移せば、ほとんど転がり込むように来店した男が、椅子に足を引っ掛け盛大に転ぶ寸前ではないか。
アビと宰蔵は同時に耳を塞ぎ、その音を遮断する。
しかも困ったことに男は倒れこんだうつ伏せの状態のまま、「うっうっ」と咽び泣き始めた。
毎度毎度のことながら――とアビは胸中で悪態を吐き、男を引き起こした。
あぁ、予想通り酷い顔だ。



「あのねぇ小笠原さん。ここはお悩み相談所じゃないんですよ」
「分かっている…分かってはいるんだ…っ!!」
「で、一体どうしたんです?」



未だ鼻を啜っている男、名を小笠原放三郎という。
つい最近はたちになったばかりだが、順調に出世街道を進んでいるやり手の営業マン。
それだけを聞くと華々しく聞こえるが――実はそうでもない。
彼は毎日のように胃薬を持ち歩いている。そうでもしなければ胃に穴が開くというのだ。
放三郎は宰蔵の隣の席で突っ伏し、もう一度鼻を啜った。



「……また、鳥居が」
「…あぁ、あの例の御仁で」



鳥居、というのは彼の上司の名だ。会社内でもかなりの力を持っているらしく、誰も何も言えないらしい。
そしてその名は――放三郎がここで零す愚痴の最上級に位置するものだ。
放三郎は涙と鼻水でグチャグチャになった顔を上げた。



「茶を淹れろって言うから、茶を淹れたのに、誰が緑茶って言ったあぁん?紅茶だ紅茶――って、
あの顔は紅茶を飲む顔じゃないだろう…!!」



鳥居の台詞であろう部分で声色と話し方を変え(つまりはものまね)、放三郎はクワッと目を見開いた。
それを皮切りに出て来る出て来る上司(ほとんど鳥居)への不満。
アビは何とかそれらを聞き流し、注文を作る。
これが大体週に一度、必ず起こるのだ。
宰蔵は泣きはらした真っ赤な目に冷たいお絞りを押し付けてやって、深い溜息を吐いた。



「まったく――大の大人が情けないですよ」
「…帰る」
「では私も。アビ、いくら?」
「しめて1060円です」
「……ちょっと、食べ過ぎたか」



財布の中を見て、ハァと息を吐いた宰蔵は札入れから2000円を取り出し、アビに渡す。
レジからお釣りの940円を宰蔵に渡せば、彼女は少なくなった金を見て少しだけ残念そうな顔をした。
心底疲れきった表情で代金を渡した放三郎は、宰蔵に促されて先に店を出る。
次いで店を出ようとした宰蔵だったが―――ふいに振り返り、真っ直ぐな眼差しでじっとアビを見据えた。



「アビ、さっきの続きだけど―――あの男には気をつけた方がいい」
「…元さんか?」
「ソイツもだけど…さっき言った教会の牧師も」
「――――――っ!?」
「何か、アイツ嫌だ。遠目に一度見ただけだから話したことはないけど…氷みたいだ」



何かを言おうとしたアビに見向きもせず、宰蔵は極上の笑みを浮かべ店から出た。
彼女らしい柔らかな音を立て閉まった戸の奥で、二人のちょっと騒がしい声が聞こえる。
だが、アビの耳の奥では、先程の宰蔵の言葉がグルグルと回っていた。
そして、アビは悟らなかった。悟れなかった。





狂り狂りと回る、軋んだ歯車の音を。










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