揺れる腰。汗ばむ白い肌。
不規則な呼吸に、熱い吐息。
すがるように伸ばされた腕は、滑らか。
その顔は、靄がかかってなかなか見れない。
だが、分かる。
「ひゃっ、ぁん!」
「牧師様っ……!」
「ア、ビっ…アビ…!」
悲鳴に近い嬌声を上げ、アビの名を呼んだのは―――。
the sixth story
「うわぁぁぁぁ!」
窓から注がれる眩しい光が、アビの顔を照らしていた。
照らされた額には汗が浮かび、当の本人はと言うとはっ、は、と短い呼吸を繰り
返している。
アビはシャツの袖で汗をグイと拭い、下腹部に嫌な感じを覚えたのか、恐る恐る
布団を捲った。
そしてそれは的中してしまったのか――アビは項垂れた。
二十四にもなって、夢精をしていた。
これを、本当に幼い頃にしか経験していなかったアビは正直粗相をした子供のよ
うに泣きたい気分である。
だがそうも言ってられない。
アビは先程まで見ていた夢――しかもとびきりの悪夢を振り払うかのように、頭
を振った。
流れる水が、心地よい。
下着を出来る限り手で洗い、洗濯機に放り込んだアビはそのまま己の顔を洗うこ
とにした。
そして、先程の夢。
確かに幸せな夢だった。相手の顔にかかっていた靄が晴れるまでは。
黒く艶やかな髪も、絹のように白い肌も、零れる嬌声も、全てが愛しき牧師の物
だった。
だが―――違う。あれは牧師ではなかった。
日曜以外毎日顔を合わせていた、迷惑な客。
「…元さん…」
思わず口から吐いて出た名前にアビは驚愕し、ブンブンと首を横に振る。
そう、あれは確かに、彼だった。
だが何故?
アビは彼をそんな対象として見ていなかったはずだ。それなのに、彼を欲望の捌
け口として、犯していた。
まさか牧師を抱いたことによって、アビの心の内に男色の気が芽生えたわけでも
あるまい。
確かにアビは男を抱いたが、だからと言って男なら誰でもいいという考えは浮か
んでいないはずだ。
ならば――何故?
だが思考を始めた脳は、突如けたたましく鳴り始めた携帯のアラームに妨害され
た。
ノロノロと携帯を手に取り時刻を確認したアビは――目を見開いた。
しばらく教会の描写ばかりだったため、忘れてしまった方もいるかもしれないが
、アビはこう見えてもラーメン屋の店主。
開店時間に間に合わせるためには、この時間までに仕込みを始めなくてはならな
いのだ。
そしてこのアラームは、最終警告。
アビはおざなりにタオルで水滴を拭い、慌ただしく着替えを始めた。
* * *
ガラ、と今日初めの戸が開く音が響く。
「いらっしゃ――往壓さんか」
「おいおい、何だ?俺が来ちゃいけないのか?」
やれやれだ――とワザとらしく肩を竦めた往壓は、まるで指定席に座るかのよう
に、一つのカウンター席に歩を進めた。
ガタガタと特有の音を立て、往壓が席についたと同時に水を出す。
だが往壓はそれを断り、「豚骨一つ」と短く告げた。
アビは黙々と麺を茹で、それを作り上げたとんこつスープの中に入れると、いく
つかの具を乗せる。
早く、しかし旨いラーメンは往壓や、他の肥えた舌を持つ客でさえも唸らせる。
往壓は出来上がったラーメンを一口啜り、箸を置いた。
眉をひそめたのは、もちろんアビの方だ。
だがどうやら熱かったらしく、往壓はほんの少し困ったように水、と呟いた。
そんな往壓が一瞬己より年下に見えてしまい、アビは一つ、苦笑を見せる。
言われた通りに水を渡せば、往壓はそれを一息に飲み干した。
「ぷはぁっ―――…熱い」
「まったく、見栄なんてはるから」
「るせぇ」
少しだけ恥ずかしそう目を伏せて、往壓はまだ熱いラーメンをもう一口啜った。
アビもまだしばらく他の客は来ないだろうというなんとなくの確信で、頭に巻い
ていたタオルを外す。
そしてカウンター内の隅で小ぢんまりと畳まれているパイプ椅子を引き寄せ、そ
れに腰かけた。
漂うとんこつの香りが、店内に充満してゆく。
「なぁ、アビ」
「はい?」
「良かったか?牧師の体は」
驚愕、及び、絶句。
そして、憤怒。
震える拳に力を込め、叫びそうになる喉を制す。
アビはこちらをジッと見詰めてくる往壓の視線に対抗するように、見返した。
だがその程度何とも思ってないのか、往壓はまるで嘲け笑っているような瞳を細
め、また一口、ラーメンを啜る。
美味い、などと呟き、往壓の胃の中に次々とラーメンが収まっていく。
すると数分もしない内にスープまで飲み干してしまったではないか。どれだけ空
腹だったと言うのか。
カツンと音を立て、割り箸を器に乗せれば、アビは普段の習慣からか器を下げた
。
だがその腕をグイと引かれ、体勢を崩す。
騒がしい音を立ててカウンターに手をつけば、眼前に広がる往壓の顔。
その近さに一瞬驚き、思わず顔を赤らめた。
「若いな。この程度で動揺するなんざ」
「アンタ、何で…」
「お前より一回り多く生きてんだ。分かるに決まってんだろ?」
クツクツと得意気に笑った往壓から離れ、眉をひそめる。
整った顔で下世話なことを言うのだからたまったものではない。
アビが空になっているコップに水を足すと、往壓は悪いな、と口だけで礼を言い
、今度はそれをチビチビと飲み始めた。
だが、今のアビの心臓は破裂寸前である。
いくらアビより一回り以上の人生経験を持っていたとて、そんな簡単に気付くま
い。
ならば、何故。
「旨かったぜ。また来るわ」
「……まいど」
カウンターにおざなりにお代を起き、往壓は来た時と同じ様な音を立てて、戸を
閉めた。
* * *
「クソッ!」
雨が、降っていた。
深夜0時を少し回った頃、アビはよく見えぬ視界を物ともせず、バイクを走らせ
ていた。
厨房の片付けも終わり、さぁ部屋に戻ろうかなどと思い、はたと気付く。
サァと一気に顔を青ざめ、アビは慌てて野菜室を確認してみれば、困ったことに
葱があと一本しか入っていなかった。
これはまずいと外を見れば、雨。
だがこの時間、まだお得意の八百屋のおじさんならば多少無理を言えば売ってく
れる。
アビは少し躊躇いの素振りを見せたが、ままよ、とバイクのエンジンをかけ――
今に至る。
無事購入出来たが、神様の悪戯か小降りだった雨が今では本降り。
体を刺す雨の痛さに思わず悪態を吐き、見えぬ視界をなんとか見ようと目を細め
た。
「今日は散々だ――…!」
きっと今年一番の厄日に違いない、と心の中で毒づき、ギギッとやけに派手な音
を立てて道を曲がった。
ふと、浮かぶ顔。
初めて牧師を抱いたあの日に、彼はなんと言っていたか。
会いたい時は、いつでも来て構わない、と。
つまりそれは彼は殆んどの時間あそこにいるのであって――。
疚しい考えが浮かんだわけではない。ただ、会いたくなっただけだ。
それに運が良ければ、雨宿りをさせてくれるかもしれない。
アビは脳内で地図を思い浮かべ、本来ならば右に曲がらなければならない道を左
に曲がった。
もしもは、仮定。
もしもは、後悔してから行うもの。
もしも雨が降っていなかったら。
もしも用事を思い出さなければ。
もしも――。
もしも、牧師と出逢わなければ。
誰も傷付くことはなかったはずなのに。
* * *
教会の閂は、閉じていなかった。
それはつまり、まだ中に牧師がいるということ。
戸の前で髪にまとわりついている水滴を振り払い、アビはいつものように戸を開
く。
ギ、と重く、それでいてどこか湿った音を立てながら開く扉。
雷が、薄暗い教会の中を照らす。
そして、何もかもを、引き裂いた。
「………牧師、さ、ま」
まさにそれは、禁忌だった。
優しい笑みを湛えた聖母マリアに映る、揺らめく影。
激しく打つ雷雨に混じった、嬌声。
そこにいたのは、見知った二人。
「ぁあっ……竜導さ…駄目ぇっ…!」
一人は、何もかもを知っていた、客。
「駄目、じゃなくて悦い、だろ…?」
一人は、愛しい、牧師。
その光景は、まさに淫靡。
込み上がってきた吐き気に、思わず口元を押さえた。
だが後ずさろうとする足は動かず、視線も外れない。
アビはただただ、その拷問に近い光景を見詰めていた。
「ひゃ、ぁん!駄目、駄目、竜導さんっ…もう…!」
「いいぜ、達けよ」
―――嗚呼、なんと。
なんと現実味を帯びた夢なのだろうか。
違う。それは間違っている。
これは現実味を帯びた夢なんかじゃない。
これは、まるで夢のような現実。
それもとびきりの、悪夢。
アビは気取られぬよう静かに息を吐き、怒鳴り入ることも、逃げ出すことも出来
ない震えた足をギュッと握り締めた。
「ヒッ、ぅあ゛!駄目、やっ、達く、達っちゃう…!」
「達けよ――元閥」
「!? それはっ…ぁ、あぁっ」
嫌々と頭を振った途端、牧師の体が爪先までぴんと伸びきった。そのまま何度か
痙攣するような動きを見せ、そして弛緩する。
細く白い腕は往壓の背にすがるかのように回され、荒い息を絶え間なく吐いてい
た。
そしてふいに、牧師の顔が上がった。
ぼんやりと虚ろな瞳でこちらを認めると――驚愕したように、アビに視線を固定
した。
「ァ、ビさ…」
「――…!!」
何も聞こえない。
名を呼ぶ声が呪縛を解く鍵だったのか、ビクンと身体中に電気が流れたかのよう
に足が動いた。
震える足を引き、駆け出す。
土砂降りの雨に打たれ、バイクの音が遠ざかって行った。
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